運営スタッフの紹介

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ゆうこ     あーる     よしか     めい     なな   

    Yuko(ゆうこ)  1967年生まれ、運営責任者

 日本でのAIS-DSDサポートグループを立ち上げ、運営を担当しております。現在40代で、自分がアンドロゲン不応症であることを知ったのは30歳になってからでした。少々長くなりますが、生い立ちを含めて自己紹介をさせていただきます。

 昭和40年代前半に商売をしている家庭の長女として生まれ、関東地方で育ちました。乳児期に鼠蹊ヘルニアで手術をしたこと以外は健康で、少々おてんばな普通の女の子でした。

 中学生の頃、クラスメイトが次々と初潮を迎え、ついに私が最後になりました。誰にも相談できず、どうしていいかわからないまま、友人には「もう生理が来た」と嘘をつくようになりました。高校生になっても生理が始まらず不安になっていると、ようやく母親から「赤ちゃんの時の鼠蹊ヘルニアが、実は卵巣が出てきていたため、初潮は遅れるかもとお医者さんに言われた」と説明を受けました。今にしてみれば、それは母親が私にショックを与えないようについた嘘であったのだろうと思いますが、当時はそれで何となく納得していました。しかし大学生になっても生理は始まらず、体毛も生えないままでした。母親からはそれ以上の説明はなく、家庭でもそのような話題は避けられるようになり、私も怖くて誰にも相談することができませんでした。社会人になってから勇気を出して自分で婦人科に行って診察を受けたところ、紹介状を渡されて某大病院の婦人科の先生のところに行くように言われました。婦人科疾患の本も出版している高名な先生でした。そこで内診後に「乳腺が発達しているので卵巣はあるはずだが、子宮は萎縮しているようなので妊娠はできないだろう。排卵しているかどうか基礎体温を計ってみなさい」と言われました。不思議なもので、この先生がまったく私の身体の状態を理解していないことを感じ取り、それ以上の通院はしませんでした。婦人科の権威でも私のような身体を見たことが無く、診断もできない…という現実にショックを受け、私は世界でただ一人だけの「奇形児」なのだと思い込み、家族にも話さずに心の奥底に封印し、それからの数年は仕事に没頭しました。

 30歳の頃にインターネットが普及し、自分でいろいろな情報を検索できるようになりました。英語で「No pubic hair, short vagina, no menstruation」(陰毛が無く、短い膣、無月経)と入れて検索をすると、Androgen Insensitivity Syndromeが出てきました。その説明を読んでいるうちに、心臓の拍動がドキドキと強まってくるのを感じました。そこで説明されていることは、私の身体そのものの説明でした。「染色体XY….」。「男の子として生まれるはずだった…?」。生理は無くても、女性として生きてきた私にその情報はとても衝撃的なものでしたが、正直なところショックよりも「あぁ…世界で一人きりではないんだ! 私と同じ体を持った女性が世の中にいるんだ!」という安堵感の方が強かったのを覚えています。その後、某大学病院の小児科で内分泌・代謝を専門にしている先生を訪れ、検査を受け、AISの確定診断をしてもらいました。(とても思慮深く、思いやりにあふれるやさしい先生です。ご紹介しますのでご希望の方はメールでご連絡ください!)

 それから数年後、アメリカのジャズ歌手のEden Atwoodイーデン・アトウッドさんがAISであることを公表していることを知り、彼女が出演したテレビ番組のビデオをYoutubeで発見して、何度も何度も閲覧しました。結婚をして、養子をもらって育てている彼女の姿に、大変励まされました。彼女のCDをすべて買い、つらい時には彼女の歌声を聞いて過ごしました。そして2010年秋、彼女がコンサートのために日本に来日することを知り、ドキドキしながらチケットを手配しました。コンサートの日、私は自分以外のAISの女性を生まれて初めて見ました。イーデンはとても背が高く、とても美しくセクシーで、自信に満ち、ユーモアもあり、こんな素敵な女性と同じAISであるということを誇りにすら感じました。コンサートの後に、握手をしてもらい、家で書いてきた手紙を渡しました。手紙には、私も同じAISであること、つらいときに彼女の歌声が支えになってくれていたこと、勇気を持ってAISを公表していることに対する賛辞などを書きました。私はイーデンの生の歌声を聞くことができ、AIS女性として力強く生きている彼女を見ることができたことに大満足でジャズクラブをあとにしました。外に出てエレベーターを待っていると、突然背後のドアが思い切り開き、イーデンが飛び出してきました。そして「オネーサン!」と日本語で叫びながら私を強く抱きしめてくれました。私の手紙を読んで、追いかけて来てくれたのでした。長く離ればなれになっていた家族と再会したような温かさに包まれ、私とイーデンはエレベーターホールで長い間抱き合って号泣していました。翌日、彼女が私の家に遊びに来てくれて、彼女の生い立ちやアメリカのサポートグループのことを話してくれました。出会ったばかりのイーデンに、家族よりも強い親近感を感じました。

 翌2011年、私は初めてアメリカでのAISカンファレンスに参加しました。100名を越すAIS女性が集まり、医師やカウンセラーを交えて情報交換や勉強会をしたり、生い立ちを発表しあったり、夜は一緒に飲んで騒いだりしながら、サポートのネットワークを広げていく集まりです。家族と医師以外には自分のことをなかなか話すことがないCAIS、PAIS、その他様々なDSDの当事者同士が横につながることの素晴らしさを実感しました。そこには10代のAIS女性もたくさん参加していました。彼女たちは医師、カウンセラー、家族、そしてなによりも同年代から60代にいたるまでのAIS「姉妹」たちのサポートを受け、他のティーンエイジャーとまったく変わらない明るい青春時代を送っています。それを見たときに、日本にいる若い世代のAIS女性が、私たちの世代のような「暗黒の青春」を送らないですむようにしなくてはいけない…と痛切に感じました。同時に、AISの子供を持った保護者にも数多く出会い、両親もまた苦しみ、葛藤し、罪悪感に悩まされ、我が子の将来に大きな不安を抱いていることを知りました。

   日本に帰国後、アメリカ人のAIS女性を通して出会った日本在住の仲間と、すぐに日本でのサポートグループの立ち上げ準備を始めました。そして2012年6月、こうして日本にもサポートグループを作ることができたことを大変嬉しく思っています。

 現在、日本、アメリカ、カナダ、イギリス、オーストラリア、中国など多くのAIS女性の友人やその家族とつながることによって、私の人生は大変豊かになりました。これだけたくさん、お互いに「Sister!」と呼び合う家族のような仲間が世界中にいるというだけで、自信を持って人生を歩んでいくことができるようになりました。また海外ではAISであることを公表して生活をしている女性も多く、ドキュメンタリー映画を作成したり、DSDの当事者と家族がより住みやすい社会になるような啓蒙活動をしているメンバーもいます。結婚して、養子縁組や代理母を通して家庭を持っているメンバーもたくさんいます。

 これらの「姉妹」たちに出会う前は、海外のサポートグループのサイトにたくさん掲載されているメンバーの生い立ちを読むことで、一人ではないんだ!と生きる勇気をもらっていました。ここで私の生い立ちを読んでいただいたことで、もしどなたかの気持ちが少しでも安らぐようでしたら幸いです。これから海外のメンバーの生い立ちを翻訳して、随時掲載していければと思っています。そしてこれを読んでいただいている方で、これからの若い世代やその家族のために一肌脱いでいただける方がいらっしゃれば、ぜひ生い立ちを投稿して下さい。個人情報はしっかり保護して掲載するようにいたします。

 最後になりましたが、このサポートグループの共同運営者であり、私の大切な友人のアールをご紹介します。私が参加する数年前からアメリカのサポートグループに参加していて、日本でのサポートグループを立ち上げるために忍耐強く私が現れるのを待ってくれていました。このウェブサイトの技術的な管理はすべて彼が担当してくれています。とても勉強熱心で、情熱的で、慈愛に満ちた男性/父親で、AISやDSDについて大変深い知識を持っています。日本語、英語、スペイン語に堪能です。

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 Al(あーる)  1965年生まれ、運営責任者

 私は南アメリカ出身で、日本に住んで20年になります。

 本国にいる私の姪がAISを持って生まれてきました。彼女の父親=私の弟は事故で亡くなっており、叔父としてこれからの彼女の人生をできるだけサポートしていきたいと思っています。

 2008年にアメリカの保護者向けサポートグループの一員になり、2009年には義理の妹と一緒にダラスでのAISカンファレンスにも参加しました。そこで私は、日本人のAIS女性も含めてたくさんの人と出会い、日本でのサポートグループの重要性を実感しました。日本にはサポートグループが無かったため、きっと多くのAIS女性とその家族が情報とサポートを求めて苦しんでいることだろうと思いました。

 それから3年後についに、僕と同じ考えを持った日本在住のAIS女性に出会うことができました。このAIS-DSDサポートグループが成長して、当事者と家族が健康で幸せな人生を送るための情報を共有するためのネットワークができることを望んでいます。僕は日本人ではありませんが、日本で日本人女性と家庭を築き、娘をふたり育てています。アメリカ在住の、年代の異なるAISの子供を持った数多くの保護者とも交流を持ってきました。その経験を生かして、日本でAISの子供を育てている親御さんの、少しでも力になれればと思います。どんな小さなことでも結構ですから、どうぞお気軽に相談して下さい。また私と一緒に、自分の子供がDSDであることを知ったばかりの両親へのサポートができる方も大歓迎です。

 日本のサポートグループへ、ようこそ。

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 Yoshika(よしか)

私はもともと深く考えない性格の人間です。周りの友人は二次性徴が来て「生理が大変だ」と言っていても、私はまだ先なのかな?と思うだけのとても暢気な人間です。中学3年になっても生理が来ないことを心配した両親から、地元の婦人科に行くことを提案され、その後総合病院で精密検査をすることとなりました。

腹部のエコー検査中、医師が『子宮がない?』とポツリと言いました。それは今でも私の記憶に残っています。検査後、看護師さんから母に、「娘さんがもう少し大人になったら病院に来て下さい」と伝えていました。私も母も何も教えてもらうことなく、その言葉の意味も深く考えないまま帰宅しました。その後私は高校入試、家族は慌ただしい日常の中で、次第に生理のことを深く考えない日々を過ごしました。『いつかは生理が来るだろう』と、私も母もあまり深く考えないように思っていたと思います。

高校では、部活動に明け暮れる日々の中、生理のことは気にしないでいました。しかし、突然別の体の変化に気がつきました。下腹部に丸いもの(しこり)が2コ触れ始めたのです。でも『この丸いものは何なのだろう』と思うだけであまり気にしない私でした。

短大進学後も、生理のことは気にせず、勉強に没頭していました。しかし、私の人生を変える出来事がありました。なにげなしに読んでいた医学雑誌に、「生理がない、脇に毛が生えていない、下腹部にしこりがある」という私と同じ特徴を持つ女性が書かれていました。その女性に下された診断はアンドロゲン不応症だったのです。『私はもしかするとこの女性と同じなのでは?』と思い、気づいたら図書館で医学に関する本の中から、アンドロゲン不応症を探していました。

同時に、『私の体が周りの女性とは違うかもしれない』ということを両親には話ができませんでした。それは『両親には心配かけられないし、どうしていいかわからない』と思ったからです。日中は普段通りに生活していても、夜になると悲しさと怖さが深まり、家族が寝静まった頃泣いていました。その中で『社会人になるなら、まず自分の体のことをきちんと知っておこう』と思いました。そして短大2年の時、中学時代に行った病院とは別の病院の婦人科に一人で受診しました。

病院で医師に『生理が来ないこと、下腹部にある二つのしこりが気になること』を告げると、医師は『MRI検査、遺伝子検査を先にしましょう。その後、しこりを取る手術をしましょう』と言いました。私の場合、時々しこりが痛み、立てないことがありました。そんな時父が仕事を休んで病院に送ってくれました。父は緊急事態と思ったのだと思います。その親が心配する姿をみて、私は大切にされているなと痛感しました。

一人で受診してから1年後、下腹部のしこりを取る手術をしました。手術後、回復室から目覚めた私の横に、先に先生から結果を聞いたであろう両親は涙ながらに駆け寄ってきてました。そして私に「ごめんね。ごめんね」と謝るばかりでした。私は、『自分が普通の女の子と違うので、両親を悲しませてしまった』と感じ自分も悲しくなった一方、『両親が泣いてくれたことは、私のことを大切に想ってくれていたんだ』と思いました。

私はある程度自分の結果を予測していましたし、覚悟はできていました。『ヨシカさんの体についてですが・・・』と医師が話はじめたとき『私、周りの女の子と違っていたのですね?』と即答しました。その後、医師からの温かい口調で告知を受けた時、私は自分自身の受け入れと気持ちの落ち着きを感じました。

告知を受けた後、次に考える事は性ホルモンと膣についてでした。性ホルモンは薬で対応できますが、私の膣は細く短いことが分かりました。先生と一緒に方針を考えて、私は膣を広げる手術を選びました。また、膣のサイズの維持するためのアドバイスも貰い、それに取り組んだこともありました。

時は過ぎ、今は私を受け止めてくれた家族とともに、日常を慌ただしく過ごしています。日常の中には、周りの存在があってこそ今の自分が生活できている幸せを感じました。そんなさ中、このサポートグループと出会いました。

メンバーに、今までの自分の経験や考えを素直に話すと、皆さんも同じように悩み苦しんでいました。その時『一緒の想いを持っている』と共感できたことに幸せに感じました。また「自分の考え方は変わっていきました。

今は、私のすべてを受け止めてくれる旦那さんやお仕事と同様に、サポートグループを大切にしていきたいと思います。私と同じような経験をして、どう生活していったらいいか悩んでいる皆さん、そしてご家族の方へ、少しでも共感できたらと思っています。まずは気楽にメールを送ってくれたら嬉しいです。    *  *  *  *  *  *  *  *  *
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 May(めい)

私は、思春期までは他の女の子と何も変わらず、生きてきました。

中学校に入ると、胸は膨らみ、身長も伸びました。でも、生理が来なくて、自分自身でも『どうしてかなぁ』と少し疑問はありました。その後、高校2年生の時、親が心配して婦人科に初めて受診し、精密検査を受けました。その後、医師から「あなたの体の中には子宮がなく、代わりに精巣があります」「妊娠はできないので、子どもは産めません」「また、性行為もできません」との告知をうけました。

私は想像もしない突然のことで、混乱し、とてもショックでした。その時に感じたことは、「私は女なんだろうか、男なんだろうか」「私は異性とどうやって付き合っていけばいい?」の二つでした。

いつしか、『自分の身体について知りたい』という思いは深まる一方『また病院で辛い話を聞かなければならない』と自問自答するたびに、病院からは足が遠のくばかりでした。ふと気がついたら、インターネットで自分の症状を検索していて、『私はきっとAISなのだろう』と思っていました。

高校を卒業し、大学生、社会人となっても、自分の身体や将来について漠然とした不安は常にありました。周りの女の子たちはパートナーと関係を築いていきましたが、私は「性行為ができません」と医者から言われたことが引っかかっていて、恋愛にはとても消極的になっていました。インターネットにある AIS の割合や人数を見ても、『私と同じような人がたくさんいるはずなのに、誰なのか知らない。私のことを理解してくれる人は世界中で誰もいないんだろうな。』と、心の奥底にはいつも漠然とした孤独感がありました。

そんな時、インターネットで A IS のサポートグループが茶話会を開き、仲間と交流していることを知りました。『実際に仲間がいて交流している場所がある!サイトの向こうに新しい世界が見えた!』そんな気がして、すぐにメールを送りました。

お茶会では、沢山の仲間たちと出会えました。そして私と同じように辛かったことや苦しかったことを体験していました。また、パートナーがいたり、結婚していたり、素敵な関係を築かれている話を聞けたことで、自分の未来に明るい光が差し込んだ感じがしました。

「自分も同じように、明るい人生を送ることができるかもしれない。自分が勇気を出して動けば、進めるかもしれない」その日の夜、仲間に会えた嬉しさに涙が出て、しばらく眠れませんでした。

また、サポートグループによって、AIS に詳しい先生と繋がることができました。その先生は、本当に素晴らしい先生で、告知の時には、強く伝えてくれました。「あなたはAISですが、紛れもなく女性である。」と。この先生のような配慮の行き届いた言葉は、本当に感動しました。

AIS のサポートグループと出会ってから、私は少しずつ変わることができました。特に、パートナーとの関係についてです。勇気を出してパートナーと話をしたり、取り組んだりしたことで、前進したことがたくさんあります。

『私が変わるために一歩進めてみよう!』と常に思えるのは、サポートグループの存在が大きいと思っています。『もし、手酷い失敗をしたり辛いことが起きたとしても、またサポートグループという故郷に戻って仲間と共感することができる、そう思えるだけで、どんなチャレンジでも頑張ってみよう!』と思えるのです。

もし、仲間がいなくて不安に思っている方がいらっしゃったら、ぜひ私たちサポートグループと繋がってみませんか。悩みは変わらなくても、誰かと共有するだけで心が楽になります。新しい仲間を両手広げてお待ちしています。

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Nana(なな)

私は3歳の時に受けた鼠径ヘルニアの手術をきっかけに、未分化な性腺があることが分かりました。その後 『46XYDSD』と診断されました。 小さい頃から、小児病院へ母親と受診していましたが、私自身は受診する理由が分からないままでした。

中学生となり、周りの友達は生理が来るのに、私自身は胸も大きくならず、生理も来ない日々でした。でも母親に聞く勇気もなく、『なんとなく私はみんなと違う、普通じゃない』と時に怖さと孤独さで、家では1人で泣いたりしていました。一方日常は、部活で気を紛らわしていました。

思春期は何かあると親にぶつかっていました。いつからか、「女性ホルモンを補うため」と母親の管理のもとで薬を飲み始めました。この頃に検査入院もしましたが、はっきり自分の身体を、母親や先生から言われません。高校に入っても母親には聞けず、好きな人ができても『距離を置こう』と思ってたので、表では良い子、裏では心が不安定の自分がいました。 しかし、『病院は、私が小さい頃から大嫌いな場所。でもそこには将来自分にできることがあるのかもしれない。』と医療系の学校に進学を決めました。

その頃、病院で先生から話があることを母親から言われました。私は『怖いな、自分のことを話されるんだろうな』と思いながら、入学式後に母親と病院へ行きました。そして主治医から告知を受けましたが、私も母も最初から涙が止まりませんでした。私の記憶には、「ナナちゃんは他の女性と身体つきが違うこと」「子供が産めないこと」しか残っていません。

その日から当分、母親と一切話すことができませんでした。『私のような身体は世界でただ1人。お母さん、隠して生きていかないといけないの?』と思い続けた私は、何かあれば親にぶつかる、物に当たるなど、エスカレートしていました。ある日の夜、母は私に『二人で命を絶とう』と話してきました。その時私は、『お母さんもこんなにまで思い詰められていたんだ、辛かったのは私だけじゃなかった』と 何度も思いました。 それ以降、母とは少しずつ話すようになりましたが、あまり自分の本音は話せませんでした。

周りの友達の恋愛の話を聞くと羨ましいのに『自分は恋愛できない』 と思い続けてしまい、恋愛は遠ざける自分がいました。 いつしか『薬を飲むことは今の自分の身体を認めること』と思うようになり、現実を背けたいばかりに薬も飲まなくなり、病院の受診も遠ざかりました。

20代を重ねる中での、周りの友人の結婚、妊娠、出産。時に心から素直に喜べない自分がいました。恋愛も変わらず消極的で、『自分の生きる道ってなんだろう』と悩み続けていた私は、信頼する先輩に自分の身体のことを話しました。 その時先輩は「ナナちゃん、生きていてくれてありがとう。ナナちゃんにしかできない使命が絶対あるから。」と泣きながら話してくれました。 私も泣きながら『話して良かった』と心の鎖が解けるような感覚でした。

20代後半になり、『健康にいるためには自分の身体に薬は必要だ』と決意でき、もう一度病院へ行きました。その時に先生は「来てくれてありがとう」と暖かく包んでくださり、私の思いを傾聴してくれました。そして2回目となる告知を受け、疾患の一つひとつを丁寧に話された時に初めて『私の身体ってそうだったんだ、そしたら薬はやっぱり必要なんだ』と思うことができました。

その後、私が赤ちゃんの時に診てくれていた医師と再会し、サポートグループの存在を知りました。『世界でたった1人だけ』とさえ思っていた私は、心から感動し、サポートグループにメールをおくりました。そしてYukoさんと会うことができました。 会った瞬間から涙が止まりませんでした。 『やっと同じ姉妹に会えた』そんな思いの私を暖かく包んでくれました。自分の世界が変わった瞬間でした。その後、多くのメンバーと会いみんなが悩みながらも前に進んでいる姿を知りました。沢山の勇気をいただいたことで、『自分も変わりたい』と、恋愛に対して今まで押し殺していた気持ちが解放できました。

告知を受けて、苦しい思いにも沢山なりました。 今も悩みがなくなった訳でもなく、悲しい思いにもなる時もあります。社会人になって出会った同期や先輩のように、『何でもありのまま話を聞いてくれる、特別扱いをしないでいてくれる存在』がある一方、サポートグループメンバーとの出会いにより、『自分をさらけ出しても、何でも受け止めてくれる安心感』を持てました。 またこの歳になって『この病気に縛られず自分らしく輝いていけることは可能だ』と強く感じています。 一歩の勇気を出すことで、自分の人生が大きく変わっていきます。それは当事者だけでなくご家族に対しても同じです。子供とともに家族も受け止める段階を踏んでいくことは大切と感じております。当事者だけでなく、家族の皆さんも1人ではありません。 私達サポートグループメンバーは、少しでも思いに共感できると信じています。 一緒に、それぞれにしかない使命の道を歩んで行きたいなと思います。

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